

彼が作曲した『テルスター』(下の曲)は、イギリスのシングルチャートで1位となり、アメリカの「ビルボード・ホット100」で、イギリスの曲としては二番目に、ナンバー1を記録しました。1962年12月のことでした。このレコードは世界中で500万枚以上を売り上げました。
ミーク氏はバディ・ホリー(ロックンロール草創期に活躍したアメリカのミュージシャン)のファンでした。というのも、バディが夢の中で彼に連絡してきたからだといいます。また、ミーク氏はオカルトに関心を持っていました。ある日、タロット占いに参加していた彼に「バディ・ホリーが2月3日に死ぬ」とのお告げがもたらされました。
そのころ、たまたまバディはコンサートツアーでイギリスにいました。そこでミーク氏はバディに連絡し、注意を喚起しました。バディは彼の気づかいに感謝したものの、特に気に留める様子を見せませんでした。なぜなら、2月3日はすでに過ぎていたからです。
ところが、その年は1958年でした。
それから1年後の1959年2月3日、バディはチャーター機に乗ってコンサートツアーに出発することになっていました。
その前夜、バディの新妻、マリア・エレナは不吉な夢を見ました。マリアの見た夢は、大きな火の玉が空から落ちてきて、野原の真ん中に激突、爆発して、地面に大きな穴が開くというものでした。悪夢から目覚めた彼女は夫に夢のことを伝えました。ところが、バディはバディで奇妙な夢を見ていたのです。
夢の中で、バディと彼の兄弟、そしてマリアは飛行機に乗っていました。兄弟はマリアをビルの屋上に残していくようバディを説得しました。バディは夢の中で妻を置き去りにすることに罪悪感を抱いたといいます。
結局、彼の夢は実現することになりました。マリアは夫に付き添ってツアーに出かけることになっていたのですが、妊娠時のつわりが起こったので、バディはあとに残るよう妻を説得したのです。
2月3日、バディ・ホリーが乗っていたチャーター機は、吹雪のために方向を失って、トウモロコシ畑に墜落、彼は帰らぬ人となりました。22歳の若さでした。

その後、この日は「音楽が死んだ日」と呼ばれるようなりました。
それから8年が経ち、ジョー・ミークは落ち目になっていました。
1967年2月3日、奇しくもバディ・ホリーの命日に、彼は女性の大家さんを射殺したあと、銃口を自分自身に向けて自殺しました。37歳でした。彼が意識的に2月3日を選んだのか、たまたまこの日に殺人および自殺に走ったのかは不明です。